LOGIN第二犠牲者の名は、黒く塗り潰されたままだった。
監視室の机に置かれた進行表。その紙面を覆う黒いインクは、何度光を当てても下の文字を透かさない。
澪は指先で紙の端を押さえたまま、息を詰めていた。
すぐ背後で聞こえた椅子を引く音は、もう消えている。
振り返っても、監視室には五人しかいなかった。
朔。
美月。
悠斗。
奈々香。
そして澪。
十数台のモニターから漏れる青白い光が、全員の顔を不健康な色へ染めている。機械の冷却ファンが低く唸り、壁内を走る新しい配線の表示灯が一定の間隔で瞬いていた。
右端の画面。
図面には存在しない教室。
制服姿の少女は、先ほど引いた椅子の横へ立っている。
顔は見えない。
背を向けたまま、次に座る誰かを待っているようだった。
「台本、全部見せて」
美月が言った。
朔が進行表を机の中央へ移す。
「触るなら手袋を」
「分かってる」
美月は薄い手袋をつけ、透の死亡が記された頁を慎重にめくった。
次の頁には、七不思議ごとの準備項目が並んでいる。
必要機材。
想定反応。
対象者。
誘導文。
その書き方に、悠斗の目が止まった。
「待て」
身を乗り出す。
「ここ」
指したのは、十三段目について書かれた箇所だった。
〈異常を否定する者を先行させ、残りの反応を撮影する〉
短い一文。
悠斗の顔から血の気が引いた。
「これ……俺が書いた」
「今夜?」
奈々香が訊く。
「違う」
悠斗は首を振った。
「八年前だ」
監視室が静かになった。
「心霊研究会で、探索計画書を作った。どの場所をどう回るか、誰が先に入るか。動画として面白くなる順番も決めた。そのとき使った言い方だ」
「同じ文章?」
美月が問う。
「ほぼ同じ」
悠斗は進行表をめくった。
音楽室。
〈音の発生源を確認する者を先に室内へ入れる〉
舞踊室。
〈最後尾の人物だけ遅れているように見せる〉
放送室。
〈実際の声と録音を混ぜ、どこから聞こえているか判断できなくする〉
悠斗の指が止まる。
「これも」
「全部、昔の計画書に?」
「そのままじゃない。でも言葉の癖が同じだ」
朔が一冊の黒いファイルを開いた。
「八年前の計画書は残ってるのか」
「警察に提出したはずだ」
「複製は?」
「部室のパソコンにあった」
「誰でも見られた?」
「部員なら」
悠斗はそこで言葉を切った。
七人。
当時、計画書へ触れられた人間は七人いた。
「俺たちの誰かが作ったんじゃない」
悠斗が低く言った。
奈々香が顔を上げる。
「どういう意味?」
「これを一人で作った奴はいないってことだ」
悠斗は進行表を手の甲で叩いた。
「俺が順番を決めた。朔が撮影の見せ方を考えた。透が音を作った。澄花が怪談の由来を調べた。奈々香は動画で使う話を膨らませた」
奈々香の唇が僅かに歪む。
「美月は?」
「救急用品を持ってきてた。安全確認」
「それだけ?」
美月の声が硬くなる。
悠斗は答えなかった。
澪は頁を見つめた。
「じゃあ、今夜の仕掛けは……」
「俺たち全員が作ったものを、誰かが組み合わせたんだ」
悠斗の声が重く落ちる。
「八年前の遊びを、本物の罠に作り替えてる」
その言葉で、澪の中に映像が蘇った。
八年前。
理科室前の廊下。
澄花がカメラを振り返り、怒った声を上げる。
『誰が仕掛けたの?』
『これ、怪談じゃない。最初から私たちを怖がらせるために――』
あのとき。
澄花は何に気づいたのか。
今まで澪は、誰か一人が悪戯をしていたのだと思っていた。
「最初から、演出があったの?」
澪が訊いた。
朔が目を上げた。
悠斗は唇を噛む。
奈々香は床へ視線を落とした。
沈黙そのものが答えだった。
「私、知らなかった」
澪の声が震える。
「本物の心霊現象を撮りに行くんだと思ってた」
「全部じゃない」
朔が言った。
「一部だけだ」
「一部って?」
「何も起きなかった場合に使う保険だ」
朔の口調は落ち着いていた。
だからこそ、澪の胸へ冷たく入ってきた。
「例えば、音楽室。ピアノへ直接装置をつけるようなことはしてない。廊下に小型スピーカーを置いて、誰もいないのに音がするようにした」
「階段は?」
悠斗が答える。
「足音を録音して、上から流した。十三段目は噂だけだった。当時、床を動かす仕掛けなんて作ってない」
「放送室」
今度は朔が答えた。
「事前収録した女の声を、タイマーで流した」
「女の声って誰の?」
奈々香が小さく手を上げた。
「私」
澪は彼女を見る。
「奈々香?」
「声を変えて録ったの。透が加工して、年齢が分からないようにした」
奈々香は唇を噛む。
「怖がってるのも、何回か演技した。動画で私が一番騒ぐと盛り上がるから」
澪は何も言えなかった。
八年前。
隣で奈々香が悲鳴を上げるたび、自分も怖くなった。
そのいくつかは演技だった。
「透も?」
「音はかなり作ってた」
朔が言った。
「廊下の足音。女の笑い声。逆再生。聞こえるか聞こえないか程度の低い音も入れてた」
「あなたは?」
澪は朔を見る。
「どこまで知ってたの」
朔は逃げなかった。
「撮影担当として、一部の演出は知ってた」
「一部?」
「全部の仕掛けを全員へ知らせたら、反応が不自然になる。誰が何を知るか分けてた」
「私には?」
「何も伝えてない」
胸の中へ、鈍い痛みが落ちた。
「どうして」
「お前は演技ができないから」
八年前なら、笑って受け流したかもしれない。
今は違った。
澪は朔の顔を見つめる。
「だから、本気で怖がらせた?」
朔の瞳が僅かに揺れた。
「そういう言い方をするなら、そうなる」
「澄花も知らなかったの?」
「最初は一部だけ知ってた」
悠斗が割って入る。
「怪談の由来を調べてたから、本物と作った話を分ける役でもあった。でも途中から、俺たちが勝手に内容を増やしてることに気づいた」
「だから怒った」
澪が呟く。
奈々香との口論。
嘘の怪談を広めるなと責めた澄花。
そして映像の中の問い。
『誰が仕掛けたの?』
あれは、怖がっていたのではない。
裏切られたことに怒っていた。
「澄花は止めようとしてたんだ」
澪が言う。
「少なくとも、最後には」
誰も否定しなかった。
監視室のファンの音だけが続く。
美月は進行表から離れ、壁際に置かれていた木箱へ目を向けた。
「私の小瓶だけ違う」
澪が振り返る。
二年七組の前に置かれていた六つの木箱。
美月の箱には、理科室から持ち出した小瓶が入っていた。
曇った硝子。
底に白い残留物。
澪は、あれを単なる薬品瓶だと思っていた。
「動画に使ったものじゃないの?」
「違う」
美月は救急鞄から透明な証拠袋を取り出した。
中に小瓶がある。
ラベルの文字はほとんど消えている。
だが、光へ傾けると、薄い筆跡が浮かんだ。
理科準備室 標本七
「標本……?」
奈々香が眉を寄せる。
「何の?」
「分からない」
美月は小瓶を持つ手へ力を込めた。
「八年前、理科準備室で拾った」
「拾ったって言ってなかったよね」
悠斗が言う。
「話してない」
「またかよ」
「あなたにだけは言われたくない」
美月の声が冷たくなる。
悠斗は黙った。
「中身は?」
澪が訊く。
「最初は空だと思った」
美月はゆっくり言った。
「蓋も緩んでた。汚れた試験管みたいに見えたから、危険な薬品だったら困ると思って持ち出した」
「何で警察へ渡さなかったの」
美月はすぐには答えない。
「事件のあと、自宅で確認した。底に赤黒いものが残ってた」
澪の喉が乾く。
「血?」
「たぶん」
「たぶんって」
「当時の私は高校生よ。正式な検査なんてできない。でも、見た目も臭いも血液に近かった」
美月は小瓶へ目を落とす。
「病院へ持っていこうと思った。母の知り合いに検査部門の人がいたから、何の血かだけでも確認できないか相談しようとしてた」
「澄花の血かもしれないと思った?」
「そう」
答えは短かった。
澪は掌の古傷へ指を重ねた。
理科準備室。
澄花。
大量の血痕。
そして標本七。
「調べたの?」
「その前になくなった」
全員の視線が美月へ向く。
「自宅から」
「誰か入った?」
「分からない。鍵は壊されてなかった。机の引き出しに入れてたのに、翌朝には消えてた」
「家族は?」
「触ってないと言ってた」
「警察には?」
澪が尋ねる。
美月は目を伏せた。
「話してない」
悠斗が額を押さえる。
「本当に、誰も何も話してねえじゃないか」
「あなたもでしょう」
「分かってる!」
悠斗の怒鳴り声が監視室へ反響した。
右端の〈LIVE〉画面で、制服姿の少女が僅かに肩を動かした。
五人がそちらを見る。
少女はまだ背を向けている。
「美月」
澪はもう一度、小瓶を見る。
「今、どうしてそこにあるの?」
「門の箱に入ってたから」
「八年前に消えたものが」
「そう」
「中身は?」
美月が小瓶を傾けた。
今はほとんど空に見える。
底に薄い赤茶色の膜が残っているだけ。
「残ってない」
「誰かが抜いた?」
「分からない」
美月の声に苛立ちが混じる。
「分からないことばかりなの。だから話せなかった」
朔がラベルへ光を当てた。
「標本七」
「何か心当たりある?」
「ない」
「七って、また七」
奈々香が呟く。
七人。
七不思議。
七つの机。
七つの学校章。
そして標本七。
偶然と言うには、何度も重なっている。
澪は進行表へ戻った。
七不思議の欄。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
四つ目。
五つ目。
その下。
六つ目。
操作室。
澪の指が止まった。
「ここが六つ目」
美月が隣から読む。
〈七不思議の操作室を発見させ、全現象に人為的な説明を与える〉
その下には。
〈対象者の恐怖を一度低下させる〉
〈同時に、全員が過去の演出へ関与していた事実を提示〉
〈責任の所在を分散させる〉
「今ここで話してることまで」
奈々香が青ざめる。
「最初から予定されてた」
悠斗が拳を握る。
「誰がこんなことを」
キーボードが鳴った。
かた。
誰も触れていない。
五人が同時に机を見る。
中央の監視端末。
黒い入力欄に、白い文字が一つずつ現れていく。
六つ目は終了しました。
奈々香が後退する。
「操作室が……六つ目」
さらに文字が打たれる。
最後は理科準備室です。
美月の手の中で、小瓶が僅かに震えた。
もう一行。
血を返してください。
監視室の空気が冷えた。
「血って」
澪が小瓶を見る。
「これのこと?」
美月は答えない。
端末にはカーソルだけが点滅している。
朔が通信記録を開こうとする。
「誰かが外から入力してる」
「場所は?」
「今追ってる」
「早く!」
悠斗が机へ手をつく。
その瞬間、右端の〈LIVE〉モニターで少女が立ち上がった。
ゆっくりと。
椅子を後ろへ押す。
七つの机の間に立つ。
制服。
長い黒髪。
澪は息を止めた。
少女が初めて、こちらへ振り返った。
「澄花……」
名前を呼んだ声は、途中で消えた。
澄花ではなかった。
顔がない。
以前、鏡に映った白い少女とも少し違う。
目があるべき場所。
鼻。
口。
すべてが、削り取られていた。
ただ皮膚がないのではない。
誰かが粘土の人形の顔を刃物で削り、表情というものを最初から消したように平らだった。
なのに、その顔が澪を見た。
目などないはずなのに。
確かに。
画面の少女は首を傾ける。
右手を上げる。
指先には赤黒い液体がついていた。
黒板へ一文字ずつ書く。
ち。
を。
か。
え。
せ。
血を返せ。
美月の手から、小瓶が滑りかけた。
朔がすぐに受け止める。
その瞬間。
小瓶の底に残っていた赤茶色の膜が、液体へ戻った。
一滴。
内側の硝子を伝う。
そして誰も傾けていないのに、瓶の底から上へ向かって流れ始めた。
第二犠牲者の名は、黒く塗り潰されたままだった。 監視室の机に置かれた進行表。その紙面を覆う黒いインクは、何度光を当てても下の文字を透かさない。 澪は指先で紙の端を押さえたまま、息を詰めていた。 すぐ背後で聞こえた椅子を引く音は、もう消えている。 振り返っても、監視室には五人しかいなかった。 朔。 美月。 悠斗。 奈々香。 そして澪。 十数台のモニターから漏れる青白い光が、全員の顔を不健康な色へ染めている。機械の冷却ファンが低く唸り、壁内を走る新しい配線の表示灯が一定の間隔で瞬いていた。 右端の画面。 図面には存在しない教室。 制服姿の少女は、先ほど引いた椅子の横へ立っている。 顔は見えない。 背を向けたまま、次に座る誰かを待っているようだった。「台本、全部見せて」 美月が言った。 朔が進行表を机の中央へ移す。「触るなら手袋を」「分かってる」 美月は薄い手袋をつけ、透の死亡が記された頁を慎重にめくった。 次の頁には、七不思議ごとの準備項目が並んでいる。 必要機材。 想定反応。 対象者。 誘導文。 その書き方に、悠斗の目が止まった。「待て」 身を乗り出す。「ここ」 指したのは、十三段目について書かれた箇所だった。 〈異常を否定する者を先行させ、残りの反応を撮影する〉 短い一文。 悠斗の顔から血の気が引いた。「これ……俺が書いた」「今夜?」 奈々香が訊く。「違う」 悠斗は首を振った。「八年前だ」 監視室が静かになった。「心霊研究会で、探索計画書を作った。どの場所をどう回るか、誰が先に入るか。動画として面白くなる順番も決めた。そのとき使った言い方だ」「同じ文章?」 美月が問う。「ほぼ同じ」 悠斗は進行表をめくった。 音楽室。 〈音の発生源を確認する者を先に室内へ入れる〉 舞踊室。 〈最後尾の人物だけ遅れているように見せる〉 放送室。 〈実際の声と録音を混ぜ、どこから聞こえているか判断できなくする〉 悠斗の指が止まる。「これも」「全部、昔の計画書に?」「そのままじゃない。でも言葉の癖が同じだ」 朔が一冊の黒いファイルを開いた。「八年前の計画書は残ってるのか」「警察に提出したはずだ」「複製は?」「部室のパソコンにあった」「誰でも見られた?」「部員なら
管理通路は、人間が歩くために作られたというより、建物の臓腑へ無理に押し込まれた裂け目のようだった。 肩幅ほどしかないコンクリートの壁。頭上には錆びた水道管と、後から増設された新しい電線が何本も絡み合っている。古い鉄から落ちる赤錆と、樹脂被膜のまだ新しい匂いが混ざり、湿った空気が喉へまとわりついた。 五人は一列になって進んだ。 先頭は朔。その後ろに澪、美月、奈々香、最後を悠斗が歩く。 誰も背後を空けたくなかった。 だからといって、この狭さでは振り返ることも難しい。 壁に固定された赤い表示灯が、一つ先へ進むたび順番に点灯していく。 かち。 かち。 まるで五人の位置を誰かが確認しながら、道を開いているようだった。「止まって」 朔が片手を上げた。 澪は背中へぶつかりかけ、足を止める。 右側の壁に、細い横穴が開いていた。 高さは目の位置ほど。横幅十センチほどしかない。換気口にしては不自然で、縁だけ埃が薄い。 朔が懐中電灯を消し、穴へ目を近づけた。「何が見える?」 澪が囁く。「放送室」 朔が横へずれた。 澪も覗く。 壁の向こうに、透が死んだ放送室が見えた。 壊された扉。 床の血痕。 切断された黒い磁気テープ。 オープンリール式録音機。 見える角度は、透が倒れていた位置を真正面から捉えている。 もし誰かがここに立っていたなら。 透が首へ絡んだテープを外そうともがく姿を、最後まで見ていられた。 澪は目を離した。 首筋が冷える。「これ、覗き穴……?」 奈々香の声が細い。「そう見える」 美月が答えた。 数メートル進むと、また穴があった。 今度は音楽室。 グランドピアノを横から見下ろす位置。 ソレノイドの仕掛けを調べていた五人の姿も、ここからなら死角なく見えていたはずだ。 次は女子トイレ。 四番目の個室を隠す壁の裏側。 さらに舞踊室。 一方通行の鏡の向こう。 奈々香が足を止めた。「ずっと……見てたってこと?」 誰も返事をしなかった。 鏡の中で自分だけが遅れたとき。 耳から血が流れたとき。 四番目の個室へ閉じ込められたとき。 誰かが壁の向こうから、その恐怖を見ていた。 それも、怪異が起きた結果を偶然確認したのではない。 最初から見るために穴を開けている。 澪は背後の奈々香が呼吸を乱す
『殺されたからです』 死んだ相馬透の声が、三階女子トイレの天井から降ってきた。 奈々香が息を呑む。 美月は反射的に廊下の方角を見た。悠斗は何かを言おうとして口を開いたが、言葉にならない。 澪だけは、その場から動けなかった。 声があまりにも透だった。 低く、少し掠れている。語尾を必要以上に伸ばさず、問いへ短く答える話し方。八年前から変わらない。 けれど透は死んでいる。 二年七組へ安置したまま。 澪自身、その身体を担架に乗せた。『俺は聞いてしまった』 校内放送が続く。 五人の呼吸が止まった。『八年前に消された音を』 ざらり、と雑音が混じる。 古いスピーカーの膜が震えている。『犯人は、ずっと一緒にいた』「止めろよ」 悠斗が天井を睨んだ。「誰だ。何がしたい!」 返事はない。 代わりに、七刻女学校の始業ベルが一音だけ鳴った。 かあん。 余韻が消える。「放送室」 朔が言った。「発信元を確認する」「透のところへ戻るの?」 奈々香の声が震えた。「嫌ならここで待つか?」「一人では絶対に残らない」「なら五人で行く」 朔は骨伝導装置を入れた証拠袋を機材鞄へしまった。 動きには淀みがない。 澪はその横顔を見た。 頼りたい。 だが、奈々香の髪から落ちた装置を触る朔の指を見てから、胸の奥にある小さな疑いが消えなかった。 音響。 映像。 遠隔操作。 録音。 偽の映像。 朔の知識が役に立つたび、その知識でこれらを作ることもできるのだと気づいてしまう。 五人は管理通路を戻った。 細いコンクリートの壁に貼られた自分たちの写真が、懐中電灯の光を受けて一枚ずつ浮かぶ。 美月の病院。 奈々香の配信場所。 悠斗の会社。 澪の取材先。 そして、室内から撮影された朔。 奈々香は朔の写真の前を通るとき、顔を上げなかった。 朔も何も言わない。 校内放送では、透の声が途切れ途切れに続いていた。『ずっと……』 雑音。『近くに……』 また雑音。『見ていた』「細切れに聞かせるな」 悠斗が吐き捨てる。「意味を持たせたいだけだ」「そうかもしれない」 朔が答えた。「そうじゃなければ?」 美月の問いに、朔は歩みを止めなかった。「確認するしかない」 二年七組の前へ着く。 まず、朔が設置した小型カメラを
黒い水は、奈々香の膝を越えていた。「早く! もう腰まで来る!」 四番目の個室の内側から、奈々香が扉を叩く。 狭い木板が衝撃を受け、鈍い音を繰り返した。 ばたん。 ばたん。 その合間にも、水の流れる音が大きくなる。 ごぼ、ごぼ、と水洗タンクの奥で空気が泡立ち、黒い液体が床へ溢れている。 澪は扉へ両手をついた。「奈々香、もう少しだけ待って!」「無理! 冷たい! 足が動かない!」 奈々香の声は泣き崩れていた。 先ほどまでは足首ほどだったはずの水位が、数十秒で腰近くまで上がっている。 澪は床を見た。 個室の外は乾いている。 扉の下には数センチの隙間があるのに、黒い水は一滴も漏れてこない。「おかしい」 美月も同じ場所を見ていた。「これだけ溜まれば、下から流れ出るはず」 古い女子トイレには排水口がある。 しかも、増設された四番目の個室の床にも、小さな排水穴が見えていた。 完全に塞がれていたとしても、腰まで水を溜めるには相当な量が必要になる。 この狭い空間に、その水がどこから供給されているのか。「朔!」 悠斗が叫ぶ。「錠はまだか!」「外から外す」 朔は電磁錠を諦め、個室の側壁へ懐中電灯を当てていた。 増設された木板の継ぎ目。 外側から古く見せるため、表面には汚し塗装が施されている。 しかし、板そのものは新しい。 朔は工具の先端を継ぎ目へ差し込んだ。「悠斗、ここを押さえろ」 二人で板をこじる。 最初はびくともしない。 悠斗が肩を押しつけ、朔が工具をさらに深く差し込む。 みし。 木材が裂ける。 内側で奈々香が悲鳴を上げた。「何か、いる!」 澪の背中が凍る。「何が?」「鏡に……後ろに……澄花が!」「鏡を見ないで!」 美月が叫ぶ。「正面の扉だけ見て! 私たちの声を聞いて!」「無理! 耳元で喋ってる!」「何て?」 奈々香の返事は、水を蹴る音に掻き消された。 ばしゃん。 ばしゃん。「腰まで来た! お願い、開けて!」 八年前。 理科準備室の扉を叩く声が、澪の耳の奥で重なった。『澪ちゃん、開けて!』 掌の古傷が疼く。 あのときは逃げた。 煙。 火災警報。 男の声。『もう助からない』 そして、自分は扉を離れた。「今度は絶対に置いていかない」 澪は呟いた。「何?」 美
三階女子トイレには、三つしか個室がなかった。 八年前も同じだった。 澪は入口に立ったまま、右から順番に扉を数えた。 一つ。 二つ。 三つ。 薄い水色の扉はどれも塗装が剥げ、下端には湿気で膨らんだ木が黒く浮いている。床の白いタイルはところどころ割れ、洗面台の蛇口には赤錆が厚くこびりついていた。 五つ目の印が示した場所。 三階女子トイレ、四番目の個室。 だが、どれほど見ても四つ目はない。「間違ってるんじゃないの」 奈々香が入口から動かずに言った。 声には期待が混じっていた。「四番目なんてない。これなら、行き先そのものが嘘だったってことでしょ」 誰もすぐには答えなかった。 奥の小窓から雨の青白い光が差し込んでいる。天井灯は死んでおり、五人の懐中電灯だけが便器の白や配管の錆を拾っていた。 美月が三つの個室を一つずつ開く。 一番目。 空。 二番目。 便座が外され、床へ転がっている。 三番目。 天井から蜘蛛の巣が垂れているだけ。「壁の奥に設備室がある可能性は?」 美月が尋ねる。 悠斗が通路図を広げた。「女子トイレの裏は配管スペース。さっきの管理通路とつながってる。ただ、ここから直接入れる入口は載ってない」「載っていない入口ばかりだな」 朔が壁を照らす。 そのとき、澪は入口脇の鏡を見た。 長い洗面台の上に設置された横長の鏡。 表面は黒い斑点に侵され、中央には縦へ亀裂が走っている。 鏡の中に、四つの扉が映っていた。 澪は呼吸を止めた。「……ある」「何が?」 美月が振り返る。「鏡」 澪は指を向ける。「四つある」 全員が鏡を見た。 現実の背後には三つ。 鏡の中には四つ。 三番目の右隣。 本来なら灰色の壁しかない場所に、もう一枚、薄い水色の扉が立っている。 表面には黒い数字で〈4〉。 奈々香の顔色が変わった。「いや」 短い声だった。 壁へ背をつける。「奈々香?」「そこ……」 鏡の四番目の扉を見たまま、奈々香の唇が震える。「八年前も、あった」 悠斗が彼女を見る。「四つ目が?」「見えたわけじゃない。でも、澄花が言ってた」 奈々香は左耳に残ったガーゼへ触れた。「四つ目があるって。私、馬鹿にした。三つしかないじゃんって」 記憶が戻ったのか、声が次第に細くなる。「それから……
「……上げて」 掠れた声は、階段下の暗闇から聞こえた。 男とも女とも判別できない。喉を潰した人間が、長いあいだ声を出さずにいたあと、無理に息を押し出したような音だった。 五人は動かなかった。 朔が十二段目へ膝をつき、懐中電灯を空洞へ向ける。 白い光が、壁面をゆっくり滑った。 深さは五メートルほど。 底には使われなくなった机や椅子が乱雑に積まれていた。錆びた金属脚が絡み合い、崩れた木製の天板が斜めに立っている。古い配管が壁に沿って下り、底には雨水らしい黒い水が薄く溜まっていた。 人影はない。「誰かいるのか!」 悠斗が叫んだ。 返事はなかった。 先ほどまで聞こえていた爪の音さえ消えている。「空耳……?」 奈々香が美月の腕を掴んだ。「五人とも聞いた」 美月は空洞から目を離さない。「少なくとも、私には聞こえた」 澪も頷きかけた。 そのとき。 朽ちた椅子の隙間で、白いものが動いた。 細い指。 血の気のない小さな手が、折れた机の陰から一瞬だけ伸びたように見えた。「待って」 澪が一歩前へ出る。「今、手が」「何?」「下に誰かいる」 朔が光を戻す。 椅子の隙間。 何もない。「澪、離れて」 美月が肩へ触れた。「人がいるなら救助が必要。でも、まず安全を確認する。五メートルはある。下の床が抜けている可能性も――」「私が下りる」「駄目」「誰かがいるかもしれない」「だからこそ一人では下りない」 美月は強く言った。「さっき悠斗が落ちかけたばかりでしょう」 澪は空洞を見下ろした。 声。 白い手。 そして、耳の奥に蘇る八年前の澄花。『澪ちゃん。開けて』 助けを求める声を聞いた。 それなのに逃げた。 今度も同じことをしたら。「途中まででいい」 澪は朔を見る。「ロープをつけて。何かあったらすぐ引き上げて」「俺が行く」「朔じゃ駄目」「理由は」「私が見たから」 澪の声が僅かに震えた。「白い手を見たのは私。もしまた、私にしか見えてないものなら……私が確かめる」 朔は数秒黙った。 反対したのは美月だった。「危険すぎる」「でも、人がいるなら」「救助する側まで落ちたら意味がない」「分かってる」 澪は自分の腰へ手を当てた。「だからロープを使う」 朔は空洞と澪を交互に見た。 やがて、悠斗